昭和40年02月17日 夜の御理解
おかげをおかげと感じれれる、そのおかげの実感が、次の信心の原動力となるのです。おかげをおかげと、こう感じる。おかげだなぁと、こう感じる。その感じる、その度合いがです、次の信心の原動力になるのです。ですから本当に、おかげをおかげと感じるって云う事は、なかなか分かりませんです。ね、取って付けたように、おかげを頂きよる訳じゃないのですから、特に、天地の親神様のおかげと云うのは、いつの間にか何とはなしに、と云うお蔭が大きいのですし。
又、今まで気が付かなかった事が、あれもおかげであった、これもおかげであったと、こう分かるようになるのですから、不退転の信心の稽古がなされなければ、そこのところの実感が、おかげち思うとるけれどもって云ったような事になってくる。ね、参らんにゃ気持ちが悪いから、って云ったような事になってしまったら、信心は、まぁ云うたら堕落だと、私は思うですね。今日、善導寺の月次祭の後、総代会で御座いましたもんでしたから、こちらへ帰りましたのが4時過ぎだったでしょうか。
そして、あの古賀先生の為にはお父さんですね、の、立ち日だから、お祭りをしてくれと云う事であった。別に式年祭と云う訳ではないのだけれども、立ち日だから、心ばかりの慰霊のお祭りをしたいと、こう云う訳なんです。本当にあの、これはあの、天地の親神様と云うよりも、霊様なんかの場合は非常に、この神様の大きなおかげに比較してから、霊様の、そのおかげと云う、霊様の働きと云ったようなものは、なんか身近にひしひしと感ずるもんです。
もう、例えてゆうなら、昨日なんか古賀先生が、明日こうして、父の霊様のお祭りを奉仕させて頂きますと云う事を話しておる。話しておるうちに古賀先生が感激するんですね、大体、先生、あんまり涙を流す人じゃないんですけれど、昨日は、目に一杯涙をためてから、その明日の霊様のお祭りと云う事をですね、挨拶するんでも、ははぁ霊様働きなさるなぁと感じたんですね。
あら、ゆきじの感じじゃない、霊の喜びを現しなさると、私、思うたんですけれど、今日も、本当に、何かとこう神饌物なんか準備されて、もう、お祭り仕えるばっかりに、お掃除もしてございましたから、帰ってすぐ奉仕させてもらいました。お祭り半ばでしたけれども、本当に、こちらにおるものでも聞こえるような大きなオイサミですものね、私は、お祭り終わってから2階に上がりましたら、テ-ブルの上にあるつりしのぶの花が、もう、こんなにおどうじを頂いておりますけん。
はぁ、ここんところに、何でおどうじがついておるじゃろうかと、今日、お花のお供えを頂いてから、はぁ、お花のお供えの一つの、真心を私に見せて下さるのだろうかと思いよったら、もう次のに写ってゆくんですね。 次々と。れから便所にやらせて頂きましたら、便所にも新しい、真っ赤なカ-ネ-ションが入れて御座いました。2本のカ-ネ-ションに次から次から、私が便所に入ってる間ついておられるんです。それも、私は気が付かなかったです。
それが只今、あの、御祈念前に、お風呂を頂いたんですけれども、あの私は狭いもんですからフリ-ジアが入れてあるんです。草花です。それが、あのコップのような物に入れてある。・・?コップなような物ですから、こう回す時にタオルにあたったばいと思うたから、奥の方へ、こうやってですね、そして又お風呂場へ行って、上がってちょっときた所が、やっぱり同じでこうやっておどうじがあっておるんです。
私はお風呂の中で、何か神様が私に、あの言うてござると感じましたから、風呂の中で御祈念させて頂きましたら、『今日の霊の喜びを現しておる』と云う事で、もう、お風呂の中で、私は感激致しました。云うなら、今日、私にですね、霊様が、もう私の行くところに、お礼についてくるようにして、お礼言うておられるような訳なんです。遺族の者の真心もさることながら、又それを奉仕させて頂いた私の、いわば、信心でお蔭を頂きましたと云うような意味じゃないでしょうかね。
私は今御霊様のお祭りで、今日この事を今晩の御理解に伝えさせて頂こうと思うたら、又、霊様で霊前でオイサミが御座いましたんですね。と云うようにですこの真心を込めてある意味合いでは、散財を致します訳です。お金も随分掛りますし、けれどもそう云うそこのところをです、あのおかげを頂いて参ります時に、そうした霊様の働きと云うものを、私共の身に直にこう感じる事が出来るようなおかげを現して下さる。
皆さんでも、本当に、この霊様を、大事になさらにゃいけんと思いますですね。本当に真心込めて、私は家庭でも奉仕なさらにゃいけませんです。はあ、ざまんなかけん、お掃除いっちょしようかと云うのじゃなくてですたいね、本当にあの、真心込めてのものが、お茶でも水でも、時々のお野菜でも果物でも、例えば、お供え一つなさるでもです、はぁ、今日だれだれの立ち日、今日だれだれの式年のお祭りと云う時には、本当に、なさる事が大事だと思います。ね、
これは確かに霊様の働きは、良しにつけ悪しにつけ頂くものですね。それを例えば、だからお祭りさせて頂いて良かったと、ほんなら今日、古賀親子の人達が感じたであろうようにです。ね、そう云う、私は印が見えるような信心、それは、天地の親神様ともなると、私は、それがもっとそんなもんじゃない大きな働きと云うものが、私共の目には見えない世界に於て、私共の気が付かないところに於てです。
働きを頂いておる事を私共の信心によって、それをキャッチさせてもらうと云うか、感じさせてもらう。信心させて頂けば頂く程真心をもって、成せば成す程一生懸命の信心修行に精進させて頂けば頂く程にです、神様のおかげが心に感じれれるところのおかげを頂かなければです、はぁこのくらいの信心で、神様がこんなに働きを見せて下さるのであるから、と云う次の楽しみとか元気な心って云うのがわいてまいりません。
確かに、おかげの実感、打ち込みゃ打ち込む程の印がある、と云う印を感じて、初めて次の信心の進めてゆく為の原動力と、しかも、楽しゅう有難う出来ると。ね、でもひとつ自分の心で、神様のおかげを本当に感じさせて頂けれるような私信心には、まず工夫がいるのじゃなかろうか。ね、霊様のお祭りを奉仕させてもらうと本当に、例えば、前の日から思いを、そこに焦点をおいてです。例えばあれやこれやと思いを込めておると云う事が、霊がこんなに喜ぶ事ならです、ね。
いつもかつも、私は神様の前にです、そう云う思いを捧げさせてもらうと云うか、思いを込めさせてもらうと云うか、神様はお供えをしてくれとか何とかと云う事じゃありませんもんね。私共の心に、おかげを受けてくれよと云うお心をです、御教えによって分からせて下さるのであるから、ね、御教えをこのくらい行じただけでも、このくらいの印が感じられるのであるから、もっと本気で御教えに取り組ませて頂いたら、もっと大きくおかげをおかげと実感出来ると。ね。
そのおかげの実感がです、段々、広い深いものになってきてです、大きい物になってきて初めて、私は本当のおかげを頂いていくと云うか、お道の信心を頂かしてもらう、値打ちがあると云うふうに思うですね。皆さんが折角お参りになるのでございますから、お参りをすりゃするがたの印が感じれれる。しかも、その印がです、又翌日の信心の原動力ともなるようなおかげを頂かなければならんと思いますね 。
おかげ頂きました。